2010.07.14
乳がん検診
乳がんって今はかなり浸透しましたね
とっても良い事だと思います
でも、乳がんついでに子宮がん・卵巣がん同じ産婦人科系統を調べてみて下さい

私は、母を乳がんで亡くし…
乳がんには気をつけていたんです
マンモグラフィーも受けていました
なのに、卵巣がんでした…
こっちはノーマークでした
どうせやるなら
同時にぃ~
そして、定期的な検診を
もう絶対です。
早く発見されるとなにより、治療が軽くて済む。
もうこれだけです。
軽くお話すると。大まかな話です。
●癌が小さくて綺麗に手術で取れれば抗がん剤なし
●癌を取る時にお水があって(腹水とか)それがどうしてもお腹の中にこぼれてしまう。そしたら抗がん剤3クール
●転移してたら6クール
まぁ。かなり大まかなお話ですが。(全てに当てはまる訳じゃありません。)
だけど…
早期発見だと、あの苦しい抗がん剤の治療が少なかったり、なかったり
だから、定期健診だよ
みんなに言っています
癌って、よくある話だけど 人ごと ってとこ結構あるじゃないですか。
私もその一人でしたから
私の友達には検診めっちゃ勧めてます
脅迫めいて…
でもね。やっぱり、検診でひっかかったお友達も出てきました。
なんともなければいいんだけど…
苦しい思い、辛い思いをする人はもういらないぃ~

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でも、乳がんついでに子宮がん・卵巣がん同じ産婦人科系統を調べてみて下さい


私は、母を乳がんで亡くし…
乳がんには気をつけていたんです

マンモグラフィーも受けていました

なのに、卵巣がんでした…


どうせやるなら


そして、定期的な検診を

早く発見されるとなにより、治療が軽くて済む。
もうこれだけです。
軽くお話すると。大まかな話です。
●癌が小さくて綺麗に手術で取れれば抗がん剤なし
●癌を取る時にお水があって(腹水とか)それがどうしてもお腹の中にこぼれてしまう。そしたら抗がん剤3クール
●転移してたら6クール
まぁ。かなり大まかなお話ですが。(全てに当てはまる訳じゃありません。)
だけど…
早期発見だと、あの苦しい抗がん剤の治療が少なかったり、なかったり

だから、定期健診だよ

みんなに言っています

癌って、よくある話だけど 人ごと ってとこ結構あるじゃないですか。
私もその一人でしたから

私の友達には検診めっちゃ勧めてます


でもね。やっぱり、検診でひっかかったお友達も出てきました。
なんともなければいいんだけど…
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2010.07.14
母の乳がん…6
○和会病院へ移って、母はしばらくして亡くなりました。
大変な闘病生活でした。
頸椎からあふれてる癌は頭へ行ったのでしょう。
頭をとても痛がっていました。
意識が無くても『頭が割れるように痛い』とそれだけはいつも言っていました。
日常会話が出来なくても、『こんなに痛いなら死なせて』と一度聞いた事があります。
かわいそうに…その痛みを少しでも和らげてあげる事が出来れば…良かったと。
母の苦しむ姿は今でも鮮明に覚えています。
そして、母の治療方針の話を家族でした時に。
私たち姉妹は、もう助からないなら楽にしてあげたい。と希望しました。
しかし、母には兄妹が居ました。母が長女で、下に4人。妹1人と弟3人。
私の叔母、叔父になります。
叔母、叔父は言いました。
『少しでも可能性があるのなら、奇跡があるのなら、姉ちゃんには生きていて貰いたい』
なぜか、こういった話になると、生きていてほしいが勝ってしまうのですね。
私たち娘の、楽にしてあげたい。は通りませんでした。
もっと強く、私たちの意見を通せば良かった。と後悔しています。
母の死を経験し、私の卵巣がんの時に子供たちに言いました。
『ママはね。ばぁちゃんを楽にしてあげられんかった。ばぁちゃん、痛くて痛くて死にたいっていいよったのに…
きっとママにも延命治療をするかしないかって時が来る。その時はママに延命治療はいらない。ママは怖がりやし、びびりやけん。痛いのも苦しいのも嫌やけん。お願いね。』
と頼みました。
『俺たちは、ママの子供やん。ママがばぁちゃんに楽にしてあげたかったように。俺たちもきっとそう思うよ』
って。

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大変な闘病生活でした。
頸椎からあふれてる癌は頭へ行ったのでしょう。
頭をとても痛がっていました。
意識が無くても『頭が割れるように痛い』とそれだけはいつも言っていました。
日常会話が出来なくても、『こんなに痛いなら死なせて』と一度聞いた事があります。
かわいそうに…その痛みを少しでも和らげてあげる事が出来れば…良かったと。
母の苦しむ姿は今でも鮮明に覚えています。
そして、母の治療方針の話を家族でした時に。
私たち姉妹は、もう助からないなら楽にしてあげたい。と希望しました。
しかし、母には兄妹が居ました。母が長女で、下に4人。妹1人と弟3人。
私の叔母、叔父になります。
叔母、叔父は言いました。
『少しでも可能性があるのなら、奇跡があるのなら、姉ちゃんには生きていて貰いたい』
なぜか、こういった話になると、生きていてほしいが勝ってしまうのですね。
私たち娘の、楽にしてあげたい。は通りませんでした。
もっと強く、私たちの意見を通せば良かった。と後悔しています。
母の死を経験し、私の卵巣がんの時に子供たちに言いました。
『ママはね。ばぁちゃんを楽にしてあげられんかった。ばぁちゃん、痛くて痛くて死にたいっていいよったのに…
きっとママにも延命治療をするかしないかって時が来る。その時はママに延命治療はいらない。ママは怖がりやし、びびりやけん。痛いのも苦しいのも嫌やけん。お願いね。』
と頼みました。
『俺たちは、ママの子供やん。ママがばぁちゃんに楽にしてあげたかったように。俺たちもきっとそう思うよ』
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2010.07.14
母の乳がん…5
○生病院へ転院し、その日のうちにいろんな検査をして頂きました。
結果。
お母さんは精神病ではないと思います。
もう一度、○鐵病院へ戻って検査を受けられた方がいいと思います。
と先生よりお話がありました。
その時に、2か月弱いて病気がわからなく殆ど放置状態。
薬で眠らされるばかりだった事を話、お願いですからどこの病院でも構いません。
他の病院を探して下さい。お願いします。
あの病院にだけは帰さないで下さい。と何度もお願いしました。
とにかくどこでも良かったのです。あの病院でさえなければ…
それから○生病院の先生は病院を探してくれ、小倉の健○会が受け入れてくれる事になりました。
そして、また救急車に乗り健○会へ移動しました。
健○会についたのはもう夕方でした。
それから母の検査が始まり…
2時間ちょっと、先生よりお話がありました。
お母さんの脊椎より癌が噴水のようにあふれ出している状態です。
もう手の施しようがありません。。。
今まで2カ月もわからなかった癌が2時間ちょっとでわかったのです。
どうしてなんでしょう。
病院でそんなに差があるのでしょうか… とても悔しい思いをしました。
書き忘れましたが、途中セカンドオピニオンもやりました。
こちらの方で有名な乳がんの先生です。
そこにセカンドオピニオンとして掛りたいと言うと、手続きをしてくれました。
その時の言葉、いまでも忘れません。
『○鐵病院での診断に何の不服がありますか』そう言われました。。。
後でわかりましたが、先輩後輩の間柄だったと…
妹と裁判を起こそうか。など話しましたが、裁判のとてつもない時間と労力を考えると…
医者相手に裁判は難しいと人にも言われ…
やめました。

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結果。
お母さんは精神病ではないと思います。
もう一度、○鐵病院へ戻って検査を受けられた方がいいと思います。
と先生よりお話がありました。
その時に、2か月弱いて病気がわからなく殆ど放置状態。
薬で眠らされるばかりだった事を話、お願いですからどこの病院でも構いません。
他の病院を探して下さい。お願いします。
あの病院にだけは帰さないで下さい。と何度もお願いしました。
とにかくどこでも良かったのです。あの病院でさえなければ…
それから○生病院の先生は病院を探してくれ、小倉の健○会が受け入れてくれる事になりました。
そして、また救急車に乗り健○会へ移動しました。
健○会についたのはもう夕方でした。
それから母の検査が始まり…
2時間ちょっと、先生よりお話がありました。
お母さんの脊椎より癌が噴水のようにあふれ出している状態です。
もう手の施しようがありません。。。
今まで2カ月もわからなかった癌が2時間ちょっとでわかったのです。
どうしてなんでしょう。
病院でそんなに差があるのでしょうか… とても悔しい思いをしました。
書き忘れましたが、途中セカンドオピニオンもやりました。
こちらの方で有名な乳がんの先生です。
そこにセカンドオピニオンとして掛りたいと言うと、手続きをしてくれました。
その時の言葉、いまでも忘れません。
『○鐵病院での診断に何の不服がありますか』そう言われました。。。
後でわかりましたが、先輩後輩の間柄だったと…
妹と裁判を起こそうか。など話しましたが、裁判のとてつもない時間と労力を考えると…
医者相手に裁判は難しいと人にも言われ…
やめました。

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2010.07.14
母の乳がん…4
そんな状況で日に日に悪くなっていく母。
私は痴呆が出たんだろうと思っていました…
でも、頭が割れそうに痛いとよく行っていました。
私たちが病院へ行けない時が出るようになると、
病院に行った時に母はよく寝てるようになっていました。
おかしいな?と思って聞いてみると睡眠薬なのでしょうか?
眠るお薬で母は眠っているようでした。
でも行くたびにお薬で眠ってる母…
なんだかどんどん悪くなって行くようでお薬を辞めてほしいとお願いしました。
凄く嫌だったのです。
その間、1か月以上経つのに未だに癌の場所が発見できずにいました。
何度も尋ねたのですが…
マーカーが上がってるのでどこかに必ず癌はあるのですが、わからないのです…
そのまま時は過ぎて行きました…
そして…
転院を勧められました。勧められる…違う。強制でした。
『お宅のお母さんは精神障害のようです。八幡西区にある精神病院、○生病院に転院して頂きます。』
私たちは言われるままです。
でもおかしい。この病院はおかしい。絶対おかしい。
私たち身内は少なからずそう思っていました。
何度も検査をして欲しいって言うのですが…
やった。わからない。それしか返ってこない…
今思えば、あの時に強制的に転院すればよかったんだと思います。
でも、当時はどうしてかそこを考える余裕がなかったのです。
転院の時。母はもう歩くことも出来なくなっていました。
日常の会話も出来ません。
もう。私たち娘もわかりません。
病院で移動する時は車いすでした。
そして、転院の為部屋を片付け、荷造りをして表のタクシーで行くつもりでしたので
病院の車いすで玄関まで行こうとした時。
看護婦さんに止められました。
『車いすは貸せません。』
?????
何を言ってるんだろう?と思いました。
母は痩せてはいませんでした。
歩けない母をどうやって表のタクシーまで連れて行けばいいのか…
その時は、私と妹と叔母の3人がいました。
そこで、言いあいになりました。
でも、病院側はどうしても表までの車いすを貸してくれなかったのです。
あり得ないですよね。
私たちはもう我慢の限界でした。部屋から救急車を呼びました。
婦長さんが走ってこられました。
貴方達は何をしているんですか?
私たちに言いました。
私たちの怒りは頂点でした。
そして、婦長さんがしぶしぶ病院の救急車を出してくれるように手配しそれで精神病院へ転院となりました。

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私は痴呆が出たんだろうと思っていました…
でも、頭が割れそうに痛いとよく行っていました。
私たちが病院へ行けない時が出るようになると、
病院に行った時に母はよく寝てるようになっていました。
おかしいな?と思って聞いてみると睡眠薬なのでしょうか?
眠るお薬で母は眠っているようでした。
でも行くたびにお薬で眠ってる母…
なんだかどんどん悪くなって行くようでお薬を辞めてほしいとお願いしました。
凄く嫌だったのです。
その間、1か月以上経つのに未だに癌の場所が発見できずにいました。
何度も尋ねたのですが…
マーカーが上がってるのでどこかに必ず癌はあるのですが、わからないのです…
そのまま時は過ぎて行きました…
そして…
転院を勧められました。勧められる…違う。強制でした。
『お宅のお母さんは精神障害のようです。八幡西区にある精神病院、○生病院に転院して頂きます。』
私たちは言われるままです。
でもおかしい。この病院はおかしい。絶対おかしい。
私たち身内は少なからずそう思っていました。
何度も検査をして欲しいって言うのですが…
やった。わからない。それしか返ってこない…
今思えば、あの時に強制的に転院すればよかったんだと思います。
でも、当時はどうしてかそこを考える余裕がなかったのです。
転院の時。母はもう歩くことも出来なくなっていました。
日常の会話も出来ません。
もう。私たち娘もわかりません。
病院で移動する時は車いすでした。
そして、転院の為部屋を片付け、荷造りをして表のタクシーで行くつもりでしたので
病院の車いすで玄関まで行こうとした時。
看護婦さんに止められました。
『車いすは貸せません。』
?????
何を言ってるんだろう?と思いました。
母は痩せてはいませんでした。
歩けない母をどうやって表のタクシーまで連れて行けばいいのか…
その時は、私と妹と叔母の3人がいました。
そこで、言いあいになりました。
でも、病院側はどうしても表までの車いすを貸してくれなかったのです。
あり得ないですよね。
私たちはもう我慢の限界でした。部屋から救急車を呼びました。
婦長さんが走ってこられました。
貴方達は何をしているんですか?
私たちに言いました。
私たちの怒りは頂点でした。
そして、婦長さんがしぶしぶ病院の救急車を出してくれるように手配しそれで精神病院へ転院となりました。

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2010.07.14
母の乳がん…3
母には2人の娘がいます。私と8つ年の離れた妹。
2人の娘たちはどちらともバツイチ
母子家庭
私は高校1年の長男と中学1年の長女。会社勤務。
妹は小学校4年生の長男と小学校1年生の二男。
二男が生まれつきの自閉症の為、自宅にいます。
ちなみに、母は再婚していました。
母の旦那さんは、糖尿病を患いいろんな合併症が出ており余命後少しと言われていました。
そんな中、完全看護で付き添うのは私たち姉妹と母の妹の叔母の3人です。
叔母は叔父がいるので、そうそういつもお願いするという訳にはいきません。
私は仕事があるので、夜担当です。妹は日中…
叔母も時々交代してくれます。
しかし、それは大変な事でした。
妹も幼い障害児を自宅に置いておかなくてはいけない…
私も働いて夜も病院に…
1か月続くともうへとへとでした…
たったの1か月です。
たったの1か月なのに… クタクタになったのです。
当時、いろんな思いがありました。
私は薄情なのかな?
たったの1か月できついだなんて…
よく見る闘病のブログ、何年も看病、介護をやってるのに…
なんて思いながら…
それでも、やはり辛いものでした。
夜、付き添いをしていてもあまり眠れません。
夜中にもいろんな行動を起こします。
突然、着てる服を全部脱ぎ出すのです。『お母さん!おかしいよ!』って
着せるのですが… また脱ぎ出す…
これの繰り返し。
時々、ふと普通のお母さんが戻ってきます。
でも私は小さな事もなのでしょう。
はい!寝なさい!って自分のベットの横に私を寝せようとします。
黙って、ベットに横になります。
病院の狭いベットに2人、大人が寝てるのです
そんな時は、母はずっといろんな事を話していました。
それからしばらくして…
私たちもこのままでは、自分たちの生活がままらない事を病院に話しました。
それから、私たちのいない時母の手は拘束されることになりました。
最初の日、手首に紐が通されベットに固定されると母は
『離して!離しっちゃ!離さんね~!』と叫んでいました。
泣きながら妹と2人、子供の待つ家に帰って行きました。

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2人の娘たちはどちらともバツイチ


私は高校1年の長男と中学1年の長女。会社勤務。
妹は小学校4年生の長男と小学校1年生の二男。
二男が生まれつきの自閉症の為、自宅にいます。
ちなみに、母は再婚していました。

母の旦那さんは、糖尿病を患いいろんな合併症が出ており余命後少しと言われていました。
そんな中、完全看護で付き添うのは私たち姉妹と母の妹の叔母の3人です。
叔母は叔父がいるので、そうそういつもお願いするという訳にはいきません。
私は仕事があるので、夜担当です。妹は日中…
叔母も時々交代してくれます。
しかし、それは大変な事でした。
妹も幼い障害児を自宅に置いておかなくてはいけない…
私も働いて夜も病院に…
1か月続くともうへとへとでした…
たったの1か月です。
たったの1か月なのに… クタクタになったのです。
当時、いろんな思いがありました。
私は薄情なのかな?
たったの1か月できついだなんて…
よく見る闘病のブログ、何年も看病、介護をやってるのに…
なんて思いながら…
それでも、やはり辛いものでした。
夜、付き添いをしていてもあまり眠れません。
夜中にもいろんな行動を起こします。
突然、着てる服を全部脱ぎ出すのです。『お母さん!おかしいよ!』って
着せるのですが… また脱ぎ出す…
これの繰り返し。
時々、ふと普通のお母さんが戻ってきます。
でも私は小さな事もなのでしょう。
はい!寝なさい!って自分のベットの横に私を寝せようとします。
黙って、ベットに横になります。
病院の狭いベットに2人、大人が寝てるのです

そんな時は、母はずっといろんな事を話していました。
それからしばらくして…
私たちもこのままでは、自分たちの生活がままらない事を病院に話しました。
それから、私たちのいない時母の手は拘束されることになりました。
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